視点・観点を増やすのは楽しい

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昔はいわゆる「うまい絵」が好きだった気がする。

いやもっと正確に言うと「うまい絵」が「好き」だったのかもすらちょっと怪しい。なんとなく形が整っていて、情報量の多い絵はきっといいものだと思っていたような感じもする。

要は「うまいと世間的に評価されている絵」をみんないいといっているから、よくわからないけどいいものなんだろうから、きっと自分も同じように好きなんだろうという感じ。あまりにも自分がなさすぎる。

絵以外も同じで、音楽とか他のこともその時の知人・友人の意見に影響される感じであった。たぶんそんなんだから自分の好きなものがよくわからなくて世間話が苦手だった気がする。自分基準の好きがないのに「あなたの好きなものはなんですか?」と聞いても中身のあることを話せるわけがない。唯一小説だけは森見登美彦さんとか西尾維新さんとか文体自体が面白いのが好きみたいな基準があったけど、現代ではあんまり好きな小説の話を雑談ですることはないしなかなか難しいところがあった。

とはいえ20代になってからきっかけがあって少しずつ創作的な活動をするようになり、20代後半ぐらいから音楽とか小説とかも作る機会がありとアウトプットが増えてきた。そうすると音楽とか小説とか絵とかの見方も変わってくる。

なんとなく「技術的にうまいものがいいものだ」と思っていたのが、「そもそも技法だけでもいろいろとあるのに画一的に”うまい”って決められないのでは?」とか「ただお作法に則って綺麗に作ってもなんの面白みもないな……」とか「これって○○の再生産なだけでなんの新規性もないじゃん」とかいろいろだ。

必ずしも具体的なアウトプットがあることが必要というわけではなくて、いろんな観点があると多面的な楽しみ方ができるようになるということだ。自分が作り手になると制作の際にいろいろと考える機会が多くなるので、おのずといろんな観点でみることができるようになりやすい気がするのはあるけど。

というところで最近は本とか映画とか音楽とかは自分の視点・観点を増やすみたいなインプットとしても触れるようにしている。ちょっと考え方が変わったり増えたりするだけでいままで面白く感じられなかった作品が楽しめるようになるし、仮に面白くなくても「何かしら観点とかコンテキストが足りていないからでは?」みたいな捉え方ができる。低予算ゾンビ映画とかサメ映画とか。

あとは感想を書いたり、日記を書くのも大事な気がする。なにかがあったら余韻がのこっているうちに言語化してみると考えがまとまりやすい気がする。よくわからなかったところも「よくわからなかった」と言語化するとなにか引っかかるところがあったりもするし。

という感じで最近は映画を見ては感想を書くという感じの活動をしている。