趣味の人と作家の人、創作との付き合い方
最近またいろいろと趣味的な活動をいろいろと再開している。絵といえるほどでもないラクガキとか、小説のネタのメモとか、ちょっとだけ創作的な目線での映画鑑賞とかそういう感じのやつ。
35歳ともなるといろいろと落ち着いてきて、なんかいい意味での諦めというのが感覚に定着してきている。本業の仕事もそこそこ稼げているし、所帯をもつというのも自分には向いてないなとわかってしまったし、関東に引っ越してほどほどに会社に通勤しやすいいい感じの家に定住したり地に足がついている。
この日記もほぼ読まれることはないだろうとわかっていつつ気軽に書いている。一応公開しているのはもしかしたら未来に一人ぐらいには読まれるかもしれないから多少まじめに書くかというちょっとしたスパイス的なところで、本気で読んでもらおうと思いながら書いているわけでもない。本気で読んでもらいたいならnoteとかに書くので。
というところで完全に趣味の人になっちゃったなという感じはある。昔は「創作=作家=仕事」みたいな捉え方にどうしてもなってしまっていて、インプレッションやお金が稼げない活動・作品なんて無駄ぐらいに思っていたかもしれないが、最近はそういうのはもういいかなという感じになっている。
自分で言うのもなんだが自分はわりと小器用なほうなので、データを適当に集めて最小限の努力でなんだかそれっぽいものを作るのは昔から得意だった。
ただまあそれは「赤点にはならないぐらいのギリギリでサボるのが得意」という意味合いで、「いいものをセンスですぐに作れていた」というわけではない。学校のお勉強ならいいけど、唯一無二の作家性が必要な領域で活躍できるタイプではない。
それでいてよせばいいのに作家性のある人たちにコンプレックスがあった。いや作家性のある人たちの人気度というかカリスマ性というかちやほやされている感じというかそういうぱっとみてわかりやすい外側だけに嫉妬していたというのが正しい気はする。自分が友人関係の維持みたいなのが苦手というのの裏返しというのもあったとは思う。コミュニケーションが苦手でもなにかいいものを作れるなら人と関われるはずだみたいな。
赤点を回避できる可もなく不可もなくぐらいのものが作れても当然ながら人気者にはなれない。事務処理が多少得意なぐらいの仕事人間にはなれるけど。
というか人に認められるような創作をするには結局他人のことをよくよく知らなければならないわけで、そこから逃げては創作はできないのでありまして。結局作家の人がカリスマ性があるのは作品以上に他人が魅力的に感じるものとはなにかを考え続けているからというのもあるのだろう。作品はその一部にすぎない。
というところで仕事はまあそこそこに上手くやりつつも、創作という面ではてんでダメであった。ただし素人なりに考え続けてはいた。
ブルーピリオドという藝大生をテーマにした漫画を読んでいたんだけど、最近のほうの巻に「作家」と「趣味」についての話があった。
主人公がさまざまな経験や創作を通じてだんだんと「作家」としての評価と自意識が芽生えていくのに対比して、主人公の高校生時代の美術の先生や憧れの先輩が作家には明確にならないと宣言してあくまでも「仕事」や「趣味」としてのみ芸術をとらえるという立場をとる。
「別に作家を目指さなくても創作はしていい」というテーマは最近自分も考えていたところだったので先生や先輩の側に共感できるところがあった。なにかを生み出す喜びと、作家として生きていくというのは別の軸なのだ。
あとは岡本太郎さんの著書とかも読んだりして、そもそも何をどう作るかというところも考えさせられるところはあった。曰く「現代では芸術は民衆のもの」という話だ。
例えばなんとなく現代でも古典西洋絵画のような遠近法とデッサンがきっちりしている絵を「描かなければならない」なんて思いがちだがそれはちがうという。
現代においては貴族だけでなく民衆も余暇とお金があり、芸術のための資材なんかも好きに買える時代だ。なんならお金のない芸術家より学生のほうがいい画材やパソコンを持っていたりもするだろう。とりあえず機会はだれにでもある。
古典的な西洋絵画は貴人のためのオーダーメイドのものだったが、市民革命により階級は平坦になり絵画も市民のものになった。そこから印象派がでてきて、ゴッホやセザンヌなどの”遠近法もデッサンもできない”画家が芸術家として活動できるようになった(ゴッホは生きているうちはほぼ認められてないけど)。
まあ印象派の人たちもキュビスムとか抽象画とか描いてた人たちも描こうと思えば写実的に描けた人たちが多いみたいだけど、要は厳しい鍛錬を積んで正確に写実的に描けることだけが芸術・創作ではないという現代アートにつづく価値観のアップデートがどんどんあり今にいたるというわけだ。
岡本太郎さんのことばとして「うまくあるな・きれいであるな・ここちよくあるな」というのがあるが、ざっくり言うと「一般人が職人的に鍛錬した絵描きと同じものが描けるわけがないのだからうまく描こうとするな」「丸に点々をつけて太陽でございみたいな符丁で伝わったと満足するな」みたいな話だ。そういうところで別の言葉の「でたらめをやってごらん」と続く。
まあその「でたらめ」が実際やってみたら難しいでしょう?という話で簡単なわけではないんだけど。民衆のための芸術とはそういうものだ、考え方の話しで職人的な知識や身体性ではないのだというところだ。(もちろん職人的な芸術に価値がないというわけではなくて、それだけではないという話)
というところで、趣味でかつ岡本太郎さんのいうところの民衆のための芸術、創作をやっていこうという感じ。それはもちろん絵だけではなくて小説でも音楽でもなんでも同じ話というところもある。
あとSNSはすぐ人間の承認欲求をむくむくと人工的に作ってくるのでSNSを離れるのも必要だなと思う。そこらへんは「暇と退屈の倫理学」という本を読んでるんだけど近いかも。