ちゃんと「おじさん」になりたい
35歳になってしまってしばらくがたった。
34歳はぎりぎりアラサーと言い張れるが、35はもう40への準備段階という感じだ。いや数字の問題ではなく純粋に体の老化とか社会的から見られる印象の変化とか内心の問題な感じではあるんだけど。
もはや若い人に気を使われて「まだ若いですよ」みたいな扱いをうけるほうがきつい。むしろちゃんと「おじさん」として扱われた方がむしろありがたいまである。インターネットで知り合った人に「20代後半ぐらいかと思ってました」とか言われると「声が若い」とかではなく「年齢相応の落ち着きとか風格がない」の意味でないか逆に心配になってしまう。
「中年」と言われるとさすがに老化という感じで心にくるところがあるが、「おじさん」とか「おっさん」とかは意外と人から言われても自称しても悪い気分にならない。なんというか「まあそうだよな、わかるわかる」みたいな自認と外部からの印象が一致する感じがあってむしろ座りがいい感じはある。
昔から読んでたフィクションの作品とかでは30代40代とかのキャラクターが「おじさん」とか「おっさん」とか言われて落ち込むみたいな描写があった気がするけど、自分が当事者となってしまった今としてはフィクションはあくまでフィクションだなと理解する感じはある。
まあでもおじさん枠としては30代はまだ仕事もバリバリやってるし、身体も昔ほどではないにしてもまだ元気は元気だしで悲壮感のようなものは少ないかもしれない。これが40代とかになるともっと体力が落ちていったり、仕事も現場というよりは部下をマネジメントする中間管理職あたりをできることが前提になったりとかで、自分の責任ではないところで疲れているもっとぐったりとしたおじさんになっていくかもしれない。
とはいえ若者ではもうないけど完全に枯れたわけでもない、仕事もお金もわりと自由が利くし、自己裁量としては人生で一番「自由」といってもいいような状態ではある。
ただまあ「自由」というのも必ずしも精神的にいいわけではないかもしれない。なんとなく人生というものの見通しが良くなって、なにもアクションを起こさなければ良くも悪くもこのまま同じような感じで最期まで続くんだろうな、というような達観した感じはなくはない。
自分は結婚は結局向いてないとあきらめてしまったけど、このぐらいの時期に子育てとかで強制的に「他者のために生きる」という役割を持つのは、そのぼんやりとした先行きが全部見えてしまう気持ちを打ち消すにはちょうどいいことのかもしれない。自分の子供でなくても、なんとなく先が見えている自分よりもこれから先を切り開こうとジタバタしている若い人を応援したい、という気持ちになってしまうのもわかるかもなと感じている。
最近は「自分の視点・観点を増やす」というところを意識している。例えば映画とか色んなコンテンツに触れてみて感想を書いたり、哲学系の本を色々と読んだり、アートとかの鑑賞方法を学んだりなどだ。
なんとなく「物事をいろんな考え方で解釈できる」というのがこのどうしようもない退屈から逃れる一番の方法かなと思ったというのがある。なんでも楽しめるというのは生来のものだけではなく、「楽しみ方の手札をたくさん持っている」ことというところだ。訓練すれば人は楽しめるものを増やすことができる。
まあ事故とががおきない限りはもうしばらくは人生を続けていける見込みなので、もっといろんな楽しみ方ができるようになりたいなと思っている。