感情のコントロールの第一仕分け:理性が先か、感情が先か
年を取ってきた多少なり自分のことを客観的にみられるようになってきた。
「自分のこと客観的にみられるようになる」というのはいろいろな意味を含んではいるが、大きいのは主に感情のコントロールについてになる。
「大人になる」というのは「感情のコントロールができる人である」の言い換えみたいな側面もある気はする。
その「感情のコントロール」とはなにかというと、「自分のことを客観視して感情を把握、言語化し、適切に対処を行う」というメソッドのことである。アンガーマネジメントで数秒待つというのがあるが、この言語化のプロセスを挟むことで怒りを言語化することを試みるということだろう。
つまり「大人になった」というのは「無感情のマシーンになる」という意味ではなく、感情はちゃんとそのまま存在しているということだ。後工程での対処により衝動的な行動に移らないということが経験や学習によって少しずつできるようになり、それにより理性的な会話ができるようになる。
しかし人間は大人になっても不可解な不合理な行動をすることがある。
それはなんでなんだろう、なぜ不合理な行動をしてしまうのか。
よくよく考えてみると多くの場合で「強い感情」を起点に後から理屈をつけているケースが多いと気が付いた。感情を理屈でラッピングしているということだ。
たとえばなにかの発言や行動をしてそれに人から何か言われたとする。それに対して強い怒りを覚え反論する。その場合反論の理屈は客観的にみると無茶苦茶になりがちだったりする。
つまり重要なところとして「言語化する≠理性的に考えている」ということだ。
言語化は正しさを保証しない。
なので「理屈では反論できませんが、とりあえずその発言は不快です」ぐらいがすくなくともその場合の嘘ではない言語化だということだ。あとからそれっぽい理屈でいくらラッピングしたところで土台がぐだぐだでは着地点も定まらない意見になってしまう。
自分のストレスの対処法など内の問題の話をしているなら別だが、他人との会話で自分の内の話をするのは稀だ。基本的には自分の外の話をすることが多い。そのため自分の感情を起点に理屈を構築するのは大概筋が悪い。
というところで感情のコントロールの第一仕分けに「今は理性と感情どっちで理屈を作ろうとしてる?」を入れるとよさそうだ。
もしそれが感情である場合は、「その感情を表明するかしないか」、「表明するにしてもどのように言うか(妙な理屈はつけないこと)」と歩を進めることはできそうだ。逆に自分じゃなくて他人の場合でも感情が理屈の根源の場合は問題解決ではなく共感的な話をしてあげたほうがいいのかもしれない。